禁句「わかりましたか?」

戦前から戦後にかけ、50年にわたって教壇に立ち続けた伝説の国語教師 大村はま 先生 の著書「教えるということ」より以下引用

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禁句「わかりましたか?」


私たちは、子どもたちにだいたいまあ好意を示されて過ごしています。ですから世の中の人は、みんな自分に対して好意をもっているような錯覚をおこすわけです。


そんなはずがあるわけがありません。世の中の多くの人が自分に積極的な好意を持って生きていてくれるなどと思うことは、よほど甘いという気がします。


その反対の覚悟をもって、友達がなくとも一人で生きぬこうとしなければならないというのに、ふっと考えると、何か意見を言えば賛成者があるような、何かをやればだれかが「よいお仕事ですね」と言ってくれるような、何かそうした甘さのようなものがあって、落とし穴への警戒心が足りないということ、他の職業人に比べてそれが言えると思います。


他の社会の人たちだったら、もっと反論が起こるのを予想して向かっていくでしょう。これはもしかしたら失敗するかもしれないと考えて、用意してとりかかると思います。ところが教師の方はそうではない。だいたい成功するような気持ちになりやすいのです。


生徒に質問するようなときも、よい答えが出てくることを期待しているのであって、反対の答えが出たり、何もわかりませんということばがかえってきたりすることがあると、びっくりするわけです。びっくりするということは、つまり甘さだと思います。自分の出した問に子どもがみんなそうだと言って、右なら右を向くのでしょうか。


世の中にでれば、そんなことがあるわけではありません。ほとんど反対の方を向くか、または全然無関心かとというような場合でも、それに耐えて、自分の主張を守っていかなければならないのです。


ところが、教室ではそうではなくて、「わかりましたか」と聞くときには、ほとんどの場合、「わかりました」とう返事を期待して聞くわけです。生徒の方も心得ていますから、「わかりましたか」「はい」となります。「わかりません」と言ったらたいへんだろうというような気がするのでもありましょうし、たいへんというよりも一つの習慣ではないでしょうか。教師が「わかりましたか」と言ったら「わかりました」と答える、ということになってしまっているのであって、その「わかりましたか」と聞くときの教師自身が、子どもたちにほんとうの真剣な答えを期待していないという自分への甘さがあるのではないかと思います。


「何もわかりません」と言われたら、どういう顔をするつもりでしょう。さぞびっくりするでしょう。それくらい自分は甘ったるいのだということを考えるわけです。ですから、私は「わかりましたか」ということばを口から出すまいと思って、指をしばっておいたことがあります。指に「✖わかりましたか」と書いた札をつけて下げておきました、そうすれば少しは言わなくなると思って、鍛えていた日々もあります。


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「わかりましたか」は、相手のためではなく、教える側の不安を取り除くための質問でしょう。

「わかりましたか」と言わずとも、子どもが「わからなければ、わからないと言ってよい」ことが分かって、「せんせい、ここがわかりません」と言える雰囲気をつくっていれば、質問する必要性もないのかもしれません。やはり、本来の子どもの理解度を確認する質問ではないでしょう。


大村先生の哲学に強く賛同します。


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