子どもを整えるのではなく、整う心を育む

子どもたちの育ちを考えるのであれば、「整える」ことではなく、子どもが自ら「整う」ことをサポートしなければなりません。 


例えば、「静かにしなさい」の言葉の背景にある本来の目的は「周りを見て、適切に判断できる心を持ちなさい」ということです。 ですから、「静かにしなさい」という単純な命令によって静かになったのは、根本的な傷を治そうとせず、麻酔を打って痛みを消した状態に過ぎません。  


保育者(若しくは親)が、子どもの行動を改善すべき時に、整えることに焦点を当てていないか、ということを自身に問うてみることが大切であると思います。  


「子どもたちが先生の話を聴かない」という問題が出た時に、まず自問すべきことは、「話に中身があって、子どもの心を掴むような話し方、伝えて方をしているのか」ということでしょう。 先生の話も面白くない、さらに一辺倒に「静かにしましょう」「手を洗いましょう」ということでは、整えることはできても、一向に子どもが整うことはありません。 


ただただ流れ作業のように「今日は〇〇をしましょう」と子どもたちに伝えようとしても、子どもたちにとっては「またか」といういつものつまらない話になっているかもしれません。

 その状況でも、子どもを整えようとしていれば、将来、とりあえず表面的に返事をして、表面的に聴いている表情をして、表面的に理解している風に見せる技術を高めることにつながっているかもしれません。 


「ちょっとおいで。今日は何か嫌なことでもあったの?人の話を聴くことって、とっても難しいことだよね。でも、先生も○○の話に普段から真剣に耳を傾けようと思っているよ。真剣に話しているのに人に聴いてもらえないってとっても寂しい気持ちになるんだよ。」  


一回伝えただけで劇的に変わるわけではないけれども、真剣に繰り返し伝えていく積み重ねが心というものを育てていくのだと思います。


東京学芸大学幼児教育学分野教授で臨床発達心理士の岩立京子先生は、子育てにおいて、「子どもたちを叱ってでも制限すべきことを見極めることが大切」であると説かれています。


叱ってでも制限すべきこととして、
①その子に危険が迫るとき
②他者に危険が及ぶとき 
③他者の権利を奪おうとしているとき 

逆に言えばそれ以外は大目に見てあげることよい。例えば飲み物をこぼしてしまったときに「ちゃんと持ちなさいって言ったでしょ!」と叱ったとしても、文字通り「覆水盆に返らず」でどうしようもない。 それよりは雑巾を持ってきて一緒に拭くとか、こぼしたときの対処のしかたを教えることが必要ではないでしょうか。 


岩立先生の言葉を借りれば、人が先生の話を聴きたいのに、誰かがおしゃべりをしているという状況は、他者の権利を奪おうとしていることです。 子どもたちは自分がただただおしゃべりをしたいという理由だけでおしゃべりをしていることがほとんどで、基本的に他者の権利を奪おうなんて思ってはいません。 


しかし、そこで保育者が「あなたの行動はお友達の聴きたいという権利を奪っていることになっているのよ。あなただけの問題ではないの。」と諭したのであれば、子どもが気づき、自ら整っていく行動をとっていくかもしれません。 

そういうことを伝えたいのに「話しを聞きなさい」「ちゃんとしなさい」と簡易的に麻酔を打とうとすることはできれば避けていきたいことです。 


子どもを「整えよう」としているのか、子どもが「整う」ことをサポートしているのか、今一度、自分自身に問いたいと思います。 


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