私たちの心に火はともっているか


「すなわち真の教育というものは、

単に教科書を型通りに授けるだけにとどまらないで、

すすんで相手の眠っている魂をゆり動かし、

これを呼び醒ますところまでいかねばならぬのです。


すなわち、

それまではただぼんやりと過ごしてきた生徒が、

はっきりと心の目を見ひらいて、

足どり確かに、

自分の道を歩み出すという現象が起こって来なくてはならないのです。


しかしながら、

このように相手の魂をその根本から振り動かして目を醒ますためには、

どうしいてもまず教師その人に、

それだけの信念の力がなければならぬでしょう。

すなわち生徒たちがその眠りから覚めて、

自ら起こって自分の道を歩み出すためには、

まず、教師自身が、全力を挙げて自分の道を歩まねばならぬでしょう。


教育がいわゆる型通りの紋切のものに終わって、

相手の心に迫る力を持たないということは、

実は教師自身が、一つの型にはまりこんで、

その活力を失った結果というべきでしょう。


実際わが国の教育で、

現在何が一番欠けているかと言えば、

それは制度でもなければ、

設備でもなく、

実に人的要素としての教師の自覚いかんの問題だというべきでしょう。


もちろん問題は、

ひとり教師の側のみにとどまらず、

生徒の側から言っても、

現在の学校制度では、

生徒が教師を尊敬する点においても、

大いにかけていることは事実です。

しかしながら、この問題も、

教師の立場からはやはり一切の責任は、

教師としての自分にあるとしなければならぬでしょう。


かくして今日の教育の無力性は、

これを他の方面から申せば結局「志」という

根本の眼目が欠けているということでしょう。

なるほどいろいろな学科を型どおりに習いはするし、

また型通りに試験も受けてはいます。

しかし、肝臓の主人公たる魂は眠っていて、

何ら起ち上がろうとしないのです。


というのも志とは、

これまでぼんやりと眠っていた一人の人間が、

急に眼を見開いて起ち上がり、

自己の道を歩き出すということだからです。


今日わが国の教育上最も大きな欠陥は、

結局生徒たちに、

このような「志」が与えられていない点があると言えるでしょう。


何年、否何十年も学校に通いながら、

生徒たちの魂は、

ついにその眠りから醒めないままで、

学校を卒業するのが、大部分という有り様です。


ですから、現在の学校教育は、

まるで麻酔薬で眠りに陥っている人間に、

相手にかまわず、

やたらに食物を食わせようとしているようなものです。

人間は眠りから醒めれば、

起つなと言っても起ちあがり、

歩くなと言っても歩き出さざずにはいないものです。

食物にしても、食うなと言っても貪り食わずにはいられなくなるのです。


しかるに今日の学校教育では、生徒はいつまでも眠っている。

ところが、生徒たちの魂が眠っているとも気づかないで、

色々なものを次から次へと、

詰め込もうとする滑稽事をあえてしながら、

しかもそれに気づかないのが、今日の教育界の実情です。

それというのも私思うんですが、結局は、

われわれ教師に真の志が立っていないからでしょう。


すなわち、われわれ自身が、

真に自分の生涯を貫く終生の目標というものをもたらにからだと思うのです。

すなわちこの二度とない人生を、

教師として生きる外ない運営に対して、

真の志というものが立っていないところに、

一切の根元があると思うのです。


しかしそんなことで、

どうして生徒たちに「志」をおこさすことができましょう。

それはちょうど、火のついていない炬火(読み:きょか 訳:たいまつ・かがり火)で、

沢山の炬火に火をつけようとするもので、

初めからできることではないのです」


(「修身教授録」森信三著 致知出版)


子どもたちの心に火をともすことが、私たちの役割です。

それにも関わらず、私たちの心に火がともっていなければ、その火を与えることはできません。


子どもたちを育てる前に、私たち保育・教育者は、

「私たちの心に火はともっているか」

という問いを自身に投げかけなければなりません。


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