吉村 直記

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子どもの心を理解する

先日、他園を視察する機会がありました。2、3歳児の子どもたちがしゃぼん玉をしています。「ほら、液を飲んじゃダメよ!」「あ~あ、こぼしちゃダメよ!」と、必死に言葉をかけている保育者がいます。一方、「それはね、こうやって吹くんだよ」「うん、いっぱいあるからこぼしても大丈夫だよ」と、子どもの心を理解して、共感する言葉をかけている保育者もいます。子どもたちは環境によって育っていくと考えていますが、「声掛け」はとても重要な環境のひとつだと思います。子どもが失敗をどう捉えるかにつながるかもしれませんし、将来の心のレジリエンスにもつながっていくかもしれません。子どもたちは、しゃぼん玉が空へと飛んでいくのを、キラキラした目で追いかけています。こぼれたしゃぼん玉の液の片付けに必死になっている保育者もいれば、「きれいだね~」「大きくふくらんだね~」「高く飛んでいるね~」と、子どもが言葉にならない、子どもの心を言葉にして、嬉しそうな子どもたちを見て、微笑みかけている保育者もいます。先日、年長さんと野外に出かけたときに、向こう側から小学生の集団が歩いていました。引率の先生と一緒です。年長さんの一人の子が、すれ違った先生を見て、「園長先生、あの人『いいせんせい』だよ」と言い出しました。「なんで、そうおもうの?」と質問すると、「だってね、あのせんせい、わらっていたよ」と、教えてくれました。子どもたちは、温かく、微笑みかけて、心の言葉を代弁してくれるような大人を好きになりますし、心の拠り所にします。先程のしゃぼん玉の失敗を指摘された子どもたちは、その後、しゃぼん玉を辞めちゃって、保育室内に入って行きました。子どもにどんな表情をして、どんな言葉をかけてあげるのか、本気で子どもの心を見ようとしているか、今一度、自園でも見直していきたいと思います。

「愚痴や不平不満、悪口、陰口を言う人の心理」

今日という日を「楽しい一日だった」と語っている人たちもいれば、「最悪な一日だった」と語っている人たちもいます。やはり、人に好かれている人というのは、楽しいことを見つけ、人の良いところを見つけ、今日も良い一日だった、と語りながら過ごしているように思います。同じ体験をしても、楽しかったことよりも、マイナスなことを語ることで、気を晴らす人がいます。なぜ、そのように二通りの人がいるのでしょうか。哲学者 加藤諦三氏の著書によれば、悪口は自分らしく生きていない人が言う。と書かれている。確かに、釣りが大好きで、釣りに行きたくてしようがない人が、友人に誘われて来週も釣りになった時に「はあ、来週も釣りになってしまった」と嘆くことはありません。自分自身が満足していれば、愚痴や不平不満を語ることはないようです。面白くて、楽しいことをしていれば、少々のことがあっても悩むことや愚痴や不平不満を語ることはありません。自分らしく、楽しく生きている人が、陰で悪口を言うこともありません。そう考えてみると、愚痴や不平不満、悪口、陰口というのは、自分自身を満足させることができず、自分自身を幸せにする力がまだ備わっていない段階の人なのかもしれません。少々の困難や愚痴を言いたいことがあっても、笑顔でユーモアに切り替えることできる力を習得していきたいものです。愚痴や不平不満の対象を、自分自身で打破できる能力を持っていれば、もしかすると、その不満は存在しないのかもしれません。加藤諦三氏は、同じ体験でも、それを楽しむ人と苦しむ人がいると言います。病気をしても、人間関係で悩んでも、それが自身の成長の糧だと捉えて、成長できる人もいれば、苦しみ、悩み、辛くなってしまう人もいる。実は、世の中には幸せな人と、不幸な人がいるわけではなくて、幸せを感じることができる人と、不幸を感じてしまう人がいるだけなのかもしれません。様々な困難に出会おうとも、それが自身を大きく成長させる糧だと信じ、環境や人のせいにせず、自身の不足として捉えていきたいと思います。

禁句「わかりましたか?」

戦前から戦後にかけ、50年にわたって教壇に立ち続けた伝説の国語教師 大村はま 先生 の著書「教えるということ」より以下引用・・・・・・・・禁句「わかりましたか?」私たちは、子どもたちにだいたいまあ好意を示されて過ごしています。ですから世の中の人は、みんな自分に対して好意をもっているような錯覚をおこすわけです。そんなはずがあるわけがありません。世の中の多くの人が自分に積極的な好意を持って生きていてくれるなどと思うことは、よほど甘いという気がします。その反対の覚悟をもって、友達がなくとも一人で生きぬこうとしなければならないというのに、ふっと考えると、何か意見を言えば賛成者があるような、何かをやればだれかが「よいお仕事ですね」と言ってくれるような、何かそうした甘さのようなものがあって、落とし穴への警戒心が足りないということ、他の職業人に比べてそれが言えると思います。他の社会の人たちだったら、もっと反論が起こるのを予想して向かっていくでしょう。これはもしかしたら失敗するかもしれないと考えて、用意してとりかかると思います。ところが教師の方はそうではない。だいたい成功するような気持ちになりやすいのです。生徒に質問するようなときも、よい答えが出てくることを期待しているのであって、反対の答えが出たり、何もわかりませんということばがかえってきたりすることがあると、びっくりするわけです。びっくりするということは、つまり甘さだと思います。自分の出した問に子どもがみんなそうだと言って、右なら右を向くのでしょうか。世の中にでれば、そんなことがあるわけではありません。ほとんど反対の方を向くか、または全然無関心かとというような場合でも、それに耐えて、自分の主張を守っていかなければならないのです。ところが、教室ではそうではなくて、「わかりましたか」と聞くときには、ほとんどの場合、「わかりました」とう返事を期待して聞くわけです。生徒の方も心得ていますから、「わかりましたか」「はい」となります。「わかりません」と言ったらたいへんだろうというような気がするのでもありましょうし、たいへんというよりも一つの習慣ではないでしょうか。教師が「わかりましたか」と言ったら「わかりました」と答える、ということになってしまっているのであって、その「わかりましたか」と聞くときの教師自身が、子どもたちにほんとうの真剣な答えを期待していないという自分への甘さがあるのではないかと思います。「何もわかりません」と言われたら、どういう顔をするつもりでしょう。さぞびっくりするでしょう。それくらい自分は甘ったるいのだということを考えるわけです。ですから、私は「わかりましたか」ということばを口から出すまいと思って、指をしばっておいたことがあります。指に「✖わかりましたか」と書いた札をつけて下げておきました、そうすれば少しは言わなくなると思って、鍛えていた日々もあります。・・・・・・・・「わかりましたか」は、相手のためではなく、教える側の不安を取り除くための質問でしょう。「わかりましたか」と言わずとも、子どもが「わからなければ、わからないと言ってよい」ことが分かって、「せんせい、ここがわかりません」と言える雰囲気をつくっていれば、質問する必要性もないのかもしれません。やはり、本来の子どもの理解度を確認する質問ではないでしょう。大村先生の哲学に強く賛同します。

佐賀新聞「ニュースこの人」

児童発達支援施設「おへそこどもスタジオ」を開設した、吉村直記さん(32) -運営する社会福祉法人みずものがたりの認定こども園「おへそこども園」の隣接地に今年4月、発達障害などがある未就学児の療育に取り組む「おへそこどもスタジオ」を開設した。 異なることではなく、開設は延長線上にあったこと。こども園をやる中で、集団生活になじめず、サポートが要る子がいるのに、一人一人に専門的な対応や支援はできずにいた。発達支援分野で専門に働きたいという人材を得るためにも立ち上げが必要になった。 -いわゆる通常の保育園・幼稚園と、こどもスタジオで過ごす子どもたちの違いはどこにあるのか。 未就学児は食事、トイレ、人間関係、脱ぎ着という身辺自立を身に付ける。こどもスタジオは一日10人の定員に対し、スタッフは常時5人つく。たとえば友達の物を本能のままに奪い取ったとき、注意だけで終わらせず、そこで時間を止めて「そんな時は『貸して』と言うんだよ」と伝達することができる。言葉が未発達な子なら、先生を呼んだり、思いを記したカードを使って伝える方法でもいい。要は、その子が豊かな人生を送るため、一人一人に合わせたトレーニングができる。苦手な食べ物も、細かく刻むとか工夫することでレッスンができる。 -施設の利用対象は、幼くして発達障害の診断などを受けた子どもたち。訪れる保護者は戸惑いを抱えているケースも多い。 保護者は子どもに「レッテルを貼られた」ように感じているが、私は「決してそうは思わない」と言う。学校だけで勉強ができる子もいれば、塾で伸びる子、家庭教師がいい子、通信講座がいい子もいる。ちょっと置き換えただけでも学び方は多様にある。ここでは決まった形じゃなく、方法を選んでやる。利用者の垣根を低くという訳ではないが、施設名は習い事、レッスンスタジオのような名前にした。家族や周囲には発達支援施設とか言わず、「おへそに行ってる」と言ってくれればいい。 -吉村園長の教育観には、幼少期から教わった故・古賀武夫さんの影響が根底にあると言う。 空手を学び、英語を学び、一緒に海外に行き、先生の影響で留学もした。集団の中で均一化させ、違いを排除する傾向が強い日本こそ、世界から見れば特異な存在。世の中には多様な価値観があり、人間はそれぞれ違いがあって、それがあるから面白いと先生のおかげで根っから思う。 放課後学童クラブもあるのでグループには0歳から12歳までが出入りする。こどもスタジオとこども園の子は共用の園庭で一緒に遊ぶ。地域の人もかかわってくれる。ごちゃまぜで、多様性ある環境ができたと感じている。自分も職員も子どもたちも「いいとこ取り」をしながら、ともに学び、成長できる場にしたい。 今後の目標をよく聞かれるが、今、目の前でやっていることで120%なので、うまく答えられない。もし挙げるとしたら、ここで育った子が成長したらツアーを組んで一緒に海外に行き、帰って来たい。自分がそうしてもらったように。 よしむら・なおき 佐賀北高-日本体育大学卒。5歳時から古賀道場(佐賀市)で学び、高校3年時にメキシコに留学。大学在学中に幼児教育に興味を持ち、保育コンサル会社に入社。2011年、25歳でおへそ保育園(同市)園長。こども園、放課後学童クラブ、発達支援施設など社会福祉法人みずものがたり〝おへそグループ〟を統括する。佐賀市

「弱さを認め、不安を認める」

思春期の子どもは、自分自身に対する不安や不満、アイデンティティを求めて葛藤している状態と言われています。しかし、思春期に関わらず、幼少期の子ども、大人になっても、その葛藤と戦いながら、人は生きているように思います。自分自身の弱さを知っておいて欲しいし、不安を認めて欲しい。そこで、弱さや不安をそのままストレートに表現できる人もいれば、歪曲して、強がりや攻撃性として表現する人や子どももいる。加藤諦三氏は、その歪曲の表現をこう著しています。パラタクシス的歪曲とはどういうことか。(中略)ある母親が子どもと、オモチャを買いに行く約束をしている。子どもは、その前日に母親がオモチャを買ってくれなかったことに不満である。そして、今日まで不満の感情が残っている。すると、その不満から夕食の「ハンバーグが美味しくない」と文句を言う。問題の本質はハンバーグの味ではない。「嫌われてもいい」とわざわざ人に言う人も歪曲しているし、「強がる」こともまた、弱さの歪曲であったりします。歪曲して表現する人は、子どもでも、大人でも、それなりの理由があります。その表現をして心の平穏を保っていたりします。「弱くてもいい」「頼ってもいい」「悩みがあっていい」ことを知っていくと心はまっすぐに成長していくかもしれません。逆に、「弱さを見せてはいけない」「頼ってはいけない」「悩んではいけない」という環境の中だけで育つと、歪曲せざるを得ない状況になるかもしれません。子どもはもちろん、相手の弱さを認め、不安も認めてあげることは、将来の強さや心の平穏につながっていくようです。しかし、人の成長の原動力は心の安定、平穏からばかりではなく、心の不安、不満、攻撃性から始まって、人の成長の原動力に変わる場合もあります。

「失敗」に賞賛を贈る

4月当初、園内に響いていた泣き声も、今では笑い声の方が多く響いています。新しく開園した「おへそつながり」「おへそこどもスタジオ」も保護者様のご理解、ご協力により順調に運営を開始しております。子どもたちの発達を専門的に支援しているスタジオでは「敏感な子で、手洗いすら拒否していたけれど、スタジオに通いだして手が洗えるようになった」「ほとんど言葉が出なかった子どもが、初めて意味のある言葉を発してくれた」などの喜びの声をいただいています。おへそグループの多様性のある環境が、子どもたちにたくさんの刺激を与え、自ら育つことを促進しているようで嬉しい限りです。 さて、年度末には15人の子どもたちがおへそを巣立っていきました私事で恐縮ですが、長男も卒園児でしたので、父親としての参加もさせていただきました。1年生になると、大きなランドセルをからって自力で学校に向かわなければなりません。今まで、お父さん、お母さんに守られていた子どもたちも、通学路はもちろん、身の回りのリスクを自ら乗り越えなければなりません。子ども以上に不安で心配になる保護者様も多いかもしれません。しかし、やはり泳げるようになるためには、水に飛び込まなければ一向に上達することがないよう、人間が自立に向かうには、勇気を持って、社会の実践の場に飛び込むことが必要となります。 アメリカの有名な哲学者のエマーソンは「よい習慣は、わずかな犠牲を積み重ねることによってつくられる」と示しています。ちょっと難しい、ちょっと恐い、ちょっと大変、ちょっときつい、ちょっとドキドキ・・・の「ちょっと」のリスクに挑戦し続ける習慣をなるべく人生の早い段階で得ることによって、人は大きく成長できるように思います。挑戦すると、もちろん、失敗もしますし、逆を言えば、挑戦しなければ失敗を経験することはできません。米GOOGLE社の幹部は「新しいアイデアを生むには失敗にも報酬を与えるべし」とも語っています。失敗した数が多いほど、挑戦した数も多いということですし、学びも多く得ることができます。子どもたちの日頃の「失敗」に賞賛を贈りながら見守っていきたいと思います。 おへそグループに通う子どもたちは今、親御さんと離れ、大きな挑戦に立ち向かっています。それぞれがそれぞれのペースで楽しみながら挑戦できる環境、そして、大いに失敗できる環境がおへそにはあります。好きな先生と、好きな仲間と、好きなことを追求し、精一杯、楽しみながら成長してくれることと思います。新しい施設、新しい職員も増え、さらにおへそグループとして大きく飛躍する年です。職員一同、全力で楽しみながら、子どもたちのあこがれの存在となれるよう、成長していく所存です。どうぞ、一年間、宜しくお願いいたします。おへそグループ統括園長 吉村直記

「絵本の読み聞かせ」から学べること

ある保育者が絵本を読んでいる。子どもの興味が向かず、他のことをしている。保育者は「○○ちゃん、こっち向いて」と声をかけてしまう。そうではなく、○○ちゃんが、こっちを向く位の魅力的な読み聞かせができていない。と思って工夫してみる。絵本の読み聞かせは、言葉通り、「読み聞かせている」。「読んで」と言われたわけではない。そもそも「読んで」と言った本には子どもは当たり前のように興味を持つ。時間を埋めるため、トイレの待ち時間、何かのとりあえず合間の読み聞かせ、保育者の都合による絵本の読み聞かせは、「絵本を読ませていただいている」のだから、無理にこちらに子どもを向かわせる権利も何もない。それよりも、こちらが興味がないことを、興味が持てるような魅力を出して読み聞かせする。という工夫に焦点を充てる。そしたら、保育者としてのスキルが向上する。つまらない読み聞かせをして、「子どものせい」にしていたら、生涯、スキルが向上することはない。それは、人に話すときも同じで、この人の話は面白いと思わせる力を持つ。努力をする。自分の話を聞いてもらえない、伝わらないのは、魅力的な話し方ができていないからと自己を見直してみる。

人は幸せだから感謝するのではなく、感謝が人を幸せにする

最古のカトリック教会といわれているベネディクト会の修道士 デヴィット・スタインドル・ラスト氏は、スーパープレゼンテーション「TED」にて次のように語りました。・・・世界中の全ての人について知っていることがあります。行動や我慢の根源でもあることです。それは「私達は皆、幸せになりたい」ということです。これに関しては皆、同じです。どんな幸せを思い描くかは人それぞれですが「幸せになりたい」ということついては皆、共通です。私のトピックは「感謝の気持ち」です。感謝の気持ちと幸せの関係とはなんでしょうか? 多くの人はこう言います。「そんなの簡単。幸せなときは感謝するよ」しかし、考えてみてください。「幸せな人は感謝している」というのは本当でしょうか?人を幸せにする全てを手に入れてもなお、幸せではない人々を私達は多く知っています。なぜならそういった人達は、別の物やより多くの同じ物を求めているからです。不運に見舞われた人達のことも、私達は多く知っています。自分には起こって欲しくない不運があってなお深く幸せを感じている人々です。彼らは幸せをまき散らしています。そして人は驚きます。なぜでしょうか?それは、彼らは感謝しているからです。つまり、幸せが人を感謝させるのではなく、感謝が人を幸せにするのです。もし幸せが自分を感謝させると考えている人は、考え直して下さい。人を幸せにするのは「感謝の気持ち」です。「感謝の気持ち」は2つの要素から成り立っている「感謝の気持ち」とは実際にどういう意味なのか? どういう働きがあるのか? そういった声もあると思います。自分自身の経験に聞いてみて下さい。誰もが経験しているはずです。私達は自分にとって価値のある経験をしています。それは与えられるものです。それは本当に与えられます。2つのことは同時に起こるのです。価値があると同時に与えられるのです。買ったわけでも、獲得したわけでも、交換したわけでも、働いて得たわけでもありません。純粋に与えられたのです。自分に価値のあるものが与えられ、自分自身もそれが無償で与えられたのだと気づく。この2つが同時に起こり、感謝の気持ちが沸き上がって、幸せが心に満ちあふれる。こうやって感謝の気持ちが発生します。これは一時的なものでもなければ、感謝の経験だけを得るということではありません。感謝しながら生きるというのが重要なのです。感謝の機会を見逃さないこと感謝しながら生きるとは、どうすればいいのか? 私達の言い方ですと、全ての瞬間は与えられた瞬間だということに気づき、経験することです。それはギフトなのです。獲得や購入といったことではないのです。再び同じ経験ができるという保証はないですが、それが私達に与えられた最も価値のあるものなのです。全ての機会がつまったこの瞬間こそがそうなのです。そうした「今」がなければ、機会も経験もできないのです。与えられた瞬間というのはギフトなのです。そのギフトそのものの中にあるのもギフトです。それは機会です。感謝の対象はその機会に対してです。機会は与えられるものではありません。もしそれを見逃していたとしたら、感謝自体できていなかったということです。機会はあらゆるギフトに存在します。そしてその機会は1つのギフトに1度しか訪れません。全ての瞬間はギフトです。しかし見逃しても次はやってきます。その機会をうまく使うことも見逃すこともできます。うまく使うことは幸せに繋がります。手の中にある幸せのマスターキーをしっかり握りしめて、私達はギフトに感謝することができるのです。時に与えられる試練も、立ち上がるための機会として感謝する私が数年前、アフリカから帰ってきた際、まず水に気づきました。アフリカには飲める水がなかったので、蛇口をひねるごとに私は感動しました。電気をつける度にも感謝しました。私はとても幸せでした。しかし、しばらくしてそれは治まりました。なので電気のスイッチと蛇口に小さなステッカーを付け、使うごとに気づくようにしました。そういうふうに、やり方は色々ありますが、人生には「止まれ」のサインが必要なのです。立ち止まったなら、次は見ることです。与えられたすばらしさに、目、耳、鼻、全ての感覚をオープンにするのです。それに終わりは無く、まさに人生そのものです。与えられたものを謳歌するのです。感謝の世界とは幸せな世界だということに、人々は気づいてきています。世界を幸せな場所へと変えるためには、「止まって、見て、行く」たったそれだけです。それが私が皆に望むことです。少しでもそうしようと思ってもらえたなら、止まって、見て、行ってみてください。ありがとうございました。・・・「人は幸せだから感謝するのではなく、感謝が人を幸せにする」大切だとわかっていても、簡単なことではありません。「幸せになりたい」とは思っていても、今ここに「感謝をする」ということは先延ばしにしてしまいます。幸せを感じていない人は、周りの環境や人のせいにしたり、人に過度に指摘をしたり、愚痴や不平不満が多くなる傾向にあるようです。逆を言えば、周りの環境や人のせいにせず、人に過度な指摘をせず、愚痴や不平不満を慎むことで、「幸せ」になる、ということも言えるかもしれません。まずは、目の前のこと、ものに「ありがたい」と手を合わせてみることが、「幸せ」の第一歩かもしれません。

「人生をサポートする居場所 = おへそ」

年長さんの卒業を1週間前に控え、園内では職員はもちろん、子どもたちもそれぞれの役割を持って、卒園式、学道場は初めての生活発表会、そして来年度に向けて準備を進めています。  当園では「私たち、僕たちの生活発表会だから、先生たちは口を挟まないでね」とか、「卒園式ではこんなことがしたい」「こんな歌を唄いたい」など、子どもたちからの提案やアイデアが止むことはありません。先生たちがやってあげることが普通であれば、こんなことはありません。任されることによって、存在意義、役割を感じ、それぞれがやりがいを持って、自ら成長に向かって進んでいっているように思います。来年度の職員体制では、「スポーツ」「インテリア」「手作りおもちゃ」「おもてなし」「生活習慣」「音楽」「アート」「哲学」「ベビーマッサージ」など20以上のチームを園内に創設し、職員がそれぞれ得意を生かしながら、協力し合うような環境を創りました。それぞれの得意なことを任され、目を輝かせながら、必死に子どもたちに貢献しようとする職員もまた心強く思います。また、新しくおへその仲間になる職員もそれぞれに魅力を持った素敵な方々ばかりです。  さて、先日、学道場の子どもたちが、春休みに入り、いつものように通知表を持って、私のところに報告に来てくれました。「先生、放送で読み上げて!」とリクエストしてくれ、園内放送でそれぞれの素晴らしい部分を共有させてもらいました。照れくさそうにしながらも、嬉しそうに報告してくれる姿は、とても愛おしく感じます。もうすぐ卒園していく子どもたちにとって、いつまでもこの場所が、ありのままを受け入れてもらえる場所であり、認めてくれる場所であり、学びを深める場所であり、報告したいと思える人がいる場所であり続けられるよう、引き続き、職員が一丸となって努力していきたいと思います。  保護者の皆様におかれましては今年度一年、この場所を共に支えてくださり心より感謝申し上げます。また、職員にもこの場を借りて心からの「ありがとう」を伝えたいと思います。子どもたち、保護者様、職員、おへそに関わるすべての皆様の人生が、より幸せになりますよう、来年度もより一層の努力をしてまいります。どうぞ、宜しくお願い申し上げます。  おへそグループ統括園長 吉村直記